ビジネス英語

ビジネス英語では何を教えるべきか。コンテンツとコミュニケーションに二分できることは容易に想像がつくだろう。コンテンツと言っているのは、ビジネスの中味、つまり、MBAで教えられているような教科とも言い換えられる。「企業財務」、「人的資源管理」、「国際ビジネス」など、あげればきりはないが、基本的なものは「経営学」というもので代表させることができる。コミュニケーションは、実務に関連したe-mailやビジネスレター、プレゼンテーション、交渉といった、ではどのようにビジネスをしていくかを、理論とスキルの両面から解説したものが理想である。

Content-based learningという考え方があるが、コンテンツを紹介しながら英語までをも体得しようとする欲張りなアプローチである。ここで言っているコンテンツとは、さきほどの「経営学」、「企業財務」、「人的資源管理」といった内容重視の科目でしか扱わないような中味を英語を通して学ぶため、その結果、内容も英語で同時にできてしまうという一石二鳥の方法だ。

だが問題はそれほどかんたんではない。教える側にとってコンテンツは多様であり、誰でもがそのコンテンツを専門にしているわけではない点である。特に、このような授業は専門家が担当するのではなく、英語教員が独学で勉強したものを土台に授業内容が組み立てられるので、往々にすると内容的に不備な面があり得る。ただ、英語で授業をおこなうため、多少の不勉強さは隠せてしまうのが実情である。

語る葦

いきなりと思われるかもしれませんが、ロシアの発達心理学者にヴィゴツキーという人がいます。(というか、優秀でありながら若くして他界したため、心理学の●●<よく比喩に使われる偉大な音楽家の名前が入る>と形容されます)ヴィゴツキーは人類の知能の発達に関心を持ち、児童の行動を観察することで実証的なデータを提供した人としてよく知らせています。80〜90年代にアメリカの学界で「ヴィゴツキールネサンス」と称されるブームを呼び起こしました。大学院でとった初の授業が、なんとヴィゴツキーのLanguage and Thought(ロシア語からの翻訳)で、その読みにくさにねをあげそうになりましたが、今思えば多少なりとも彼の思想に触れておけてよかったなと思っています。

ヴィゴツキーの考え方のひとつで、教育(中でもテスト)に関するものがあります。将来の学習に対して計測するテストはない。テストとは、過去どれだけ学習したかの証でしかない、というものです。そんなの当然と思われるかもしれません。中間や期末試験、受験勉強といった類の試験はその典型ですね。また、就職試験の筆記試験にしても、そのほかのありとあらゆる種類の試験はみな、いわゆる試験対策が可能なものです。試験対策が可能ということは、過去に勉強した蓄積が根本であって、それが土台にあるからこと試験が可能になります。

昔ある外資系のIT企業に勤めていたとき、とても優秀な一年上の先輩と机を隣り合わせで仕事をさせていただいたことがあります。といっても、その当時はまだ研修中だったため、その先輩が仕事に打ち込んでいる中、私は勉強していたわけです。年がら年中勉強していても眠くなるだけなので、たまに冗談のひとつも言ってみるわけです。ただ、その先輩と話をしていると、非常にむずかしい話に移行していくことがたまにありました。その中の会話のひとつに、「企業では、人材の能力を測る際に、現在の能力ではなく、将来どのような能力を発揮してくれるかで見るべきだ。そして、それに対して給与を計算すべきだ」というものがあり、それには納得せざるを得ませんでした。

たしかにそうなのです。そして、特に技術的な進歩が急速であるIT業界にあっては、過去どのような仕事をしたかではなく、これからどのような仕事ができるかで能力を決め、さらに言えば、その将来的価値創出に対して企業は給料を算出すべきなのです。これが能力主義の根本となっているはずですが、でも、実際の昇進などを見ていると、本当にそれがすべての企業に浸透しているかは疑問です。日本の伝統的な組織、もっと言えば、日本の大学のようなところは、まったく逆のような状況も見られるのです。

もちろん、将来の価値創出というのをどのようにして計測(予測)するかはほぼ不可能です。計測を試行してみるとしても、それは過去や現在のデータから得るしかありません。また、予測というそのものが怪しいのは事実です。言わば、おみくじみたいなものですので。それから考えるべき点は、組織にとっての価値というものが多面的な計測(判定)のされ方をするということです。作業をこなすだけが価値なのか。それよりも、長い間、組織に勤めていて人脈が豊富で仕事を進める上でその人脈を活用できる、というのも、価値創出に至る手段となり得ます。となると、単なる実務上の能力(たとえば、何ステップを何時間でコーディングできるとか、システム開発を何ヶ月でできるとか)だけで判定することがむずかしくなるでしょう。

さきほどのヴィゴツキーですが、「発達」という心理学の一分野に興味を持っていたからでしょう、このようなことを言ったのは。人間は個体にて、そして系統的に見ても、常に発達を遂げている。個々の人間を見るときには、常に発達という時間の流れの中で考えていかなければならない。横断的という言い換えられましょうか。でも現存する人間に関する研究では多くが縦断的といって断片的で一時点での状態を探る手段に頼っているものがあります。その原因は言うまでもありません。横断的な研究をするには時間がかかるのです。ひとりの、あるいは複数の人間を何十年にも渡って見つめるしか方法がないのですから。

ただ、それを解消するような調査方法が見直されているのはうれしい限りです。Narrative paradigmは私が好きなアプローチです。これに近いものとして、オーラル・ヒストリーという考え方もいろいろな場面で聞かれるようになりました。同時通訳者として有名な鳥飼玖美子氏は『通訳者と日米外交史』(みすず書房)という書籍を著しました。著名な通訳者にインタビューをし、口頭にて通訳史を論じてもらうものです。今まで作業面にしか焦点が当てられてこなかった研究分野でしたが、通訳者という人間にスポットライトが当てられた画期的な研究だと思います。

ですから、ある人材がこれから何をしてくれるのかは、やはりその人に何かを語ってもらうしかないのでしょう。もちろん、それを受けて判定するのは、みなさんですし、それがハズレルこともあります。でも、語ってもらわないことには何も生まれません。人間は「語る葦」なのですから。

4大スキルについて

IT英語では、特に語学の4大スキルであるリーディング、スピーキング、ライティング、リスニングという区別はおこなっていません。とにかくITに関する英語であれば何でもOKというアプローチですが、どちらかと言えば、表現とか用語に重きをおいているためでもあります。基本的に表現を覚えて、それぞれのスキルを駆使する際の参考にしてください、という立場をとっています。

私は、これはひょっとすると、ESPという学習分野全般に言えるのかなとも思っています。というのも、ESPを形成している基本概念はコンテンツだからです。コンテンツを識別するためには、このコンテンツに特有の用語があります。表現があります。コンテンツを言い換えればジャンルになります。

ジャンルということを考えた場合、若干スキルが変わってくることがあります。ニュースというジャンルの中でも、それが新聞であるのか、それともテレビであるのかによって、新聞の場合はライティングとリーディングが、テレビの場合にはライティングとリスニングが関係してくるからです。なので、完全にスキルを無視するわけにはいきません。だから、4大スキルを完全に無視できないものの、ジャンルにもスキルという考え方が関係してきます。

ところが、スキル別という学習法ほど、何となく胡散臭いものはありません。というのも、この世のどこにスキルが分かれて存在することがあるのでしょうか。スキルをなぜ分けて考えなければいけないのでしょうか。スキルを分けて考えるほど、時間の無駄はありません。

というのも、実際に私たちが何語でもいいから言葉を使ってコミュニケーションをとるなら、とにかくスキルの区別など考えずに、相手のことを理解して、自分のことを理解してもらう以外に方法はないからです。私の言いたいことが初心者にどこまで当てはまるかは若干不安ですが、それでも、初心者の頃から、スキルを4つに分けて、それごとの訓練やら、検定試験対策やらをやっても、実践ではあまり使えないという結果に陥るのです。

そこで、私はマルチ処理の訓練法を提唱しています。マルチとは、ある一時点で見た場合、必ず複数の感覚を使っているようなコミュニケーションです。今、私がこのブログを書いていますが、コンピュータ入力する際、私は手を使っています。従来の書く行為です。次に、私は目で画面の字を追いながら書いています。見るという作業です。そして、心の中では、ささやきにも似た程度の音声ではありますが、少し書いている文章を頭の中で読んでいます。音が響いているのです。となると、心の耳の動いていることになります。

ここまでくると、バフチンの複数の声が思い起こされます。小説の特徴を複数の声に見出した彼ですが、コミュニケーションは基本的に複数の「声」がモードを異にして行き交うもののようです。バフチンも陥りましたが、ここでもある矛盾に陥ってしまいます。つまり、基本的にコミュニケーションが複数のモードを異にする声で成り立っているとすれば、コミュニケーションらしき行為をとればそれは自然と複数の声を前提としていることになります。小説を構成する言葉の特徴が複数の声だとすると、詩を書くときにも必ず複数の声が散見されなくてはなりません。なぜなら、詩も小説と同様、言葉を使って創作した結果だからです。

IT英語の栄枯

IT業界につきましては、たしかに相当な動きがあります。その動きの中核となっているのが、私はアウトソースの流れだと思います。以前はまだ英語圏の人と仕事をするという風潮があったのですが、今は完全に中国やインドに流れが変わってきています。ご存知のとおり、中国人は日本から学ぶとい
う機運があり、中国人とでしたら、かんたんな日本語で仕事ができてしまいます。ですから、実務上から言うと、英語を学ぶ必要性が少なくなってきています。逆に、日本語があまりわからないエンジニアに対して、どのようなわかりやすく伝えるかが今の課題です。

流れとしてはインドへ、となっていますが、インド人と仕事をするなら、中国人と日本語で仕事をした方が便利です。そのため、日本発のアウトソースとしては、中国どまりになっていて、そのため、IT英語の実質的な必要性がなくなってきています。

ただ、マネジメントやその上でのレベルと仕事をしなければいけないエンジニアも数多くいます。その人向けの英語という意味からすると、いわゆるIT英語ではなく、TOEICのような汎用英語が使えるわけです。なので、TOEICなどのビジネス英語を全般的に扱っている検定試験が見直されているのでしょう。

IT業界の動きはとても激しく、たしかにいろいろと周りをみていないと、置いてきぼりをくってしまいます。私個人としては、エンジニアのためのIT英語というよりは、むしろ英語の本筋を見た場合、ITの英語と共通する点があるものとみております。ただし、周りの環境には打ち克つことができず、なかなか苦労しております。

別の機会ですが、エンジニア向けの英語Eメール講座を企画し実施いたしましたところ、とても好評でした。このあたりにまずは落ち着くのかなと思っております。ただ、これは通信講座での研修でしたので好評だったのかもしれません。セミナー形式で公募をかけたところ、まったく参加者が集まりませんでした。エンジニアはあまり人前に出るのを好まないためだと推測しておりました。

(とある方とのメールのやりとりの一部ですが、雑感として転載しておきます)

理論と実践パート2

理論と実践ということで数日前に書きました。その主旨としては、すぐれた理論は実践でも役立つし、すばらしい実践は体系的にとらえればすぐれた理論になる、というものです。

ただ残念なことに、理論をしっかり読み込んでいこうとすると、果たしてこれが実践なのか?と思うものが多いですし、実践を見てみるとどの箇所を理論に基づかせようとしているかという疑問を抱かせざるを得ない内容が多過ぎる点です。特に嘆かざるを得ないのは、どうやら理論側に軍配があがりそうです。

重箱の隅をつつくような理論をあげてそれが実践で役立たないと非難するのはあまりにも幼稚な議論でしょう。でも、私自身はどうしてもこういった幼稚な議論をしがちになってしまうのは、本当は、ある研究分野における前提をまったく理解していないからなのです。

たとえば、理論を構築するプロセスだけとってみても、一冊の本では収まりきらないような内容を勉強しなければいけません。定質、定量といった調査法を勉強して、いざ調査をはじめようとすると、調査の内容どころか、こういった調査法を身に付けるまでに時間がかかり、本筋の内容を考える暇さえ与えられないような気がします。それだったら自分の力不足で済ませられるのですが、内容を真剣に理解しようとしても、本当に内容を論じているのかが見えなくなってくることさえあるのです。調査法だけを非難するのは論理的ではないにせよ、定量的な調査法を用いて実証しようとする研究ほど毛嫌いしてしまうし、そういった研究者が多いのもおそらくうなづける事実ではないでしょうか。

ただやはり何を研究しているかを再度問う必要があると思うのです。自然、物理的現象だったら観察や調査というのは納得がいきます。推測というものが入ってくるのであれば、統計的な判断にゆだねるのもいいでしょう。しかし、私が長い間関心があって、今でも中心テーマに据えたいのは「コミュニケーション」という現象なのです。しかも接頭辞に「人間」というものを伴います。これを合体させると「人間コミュニケーション」となり、人と人とがどのように関わっていくかを見つめていきたいと考えています。

このように書くと自分はコミュニケーションの達人だとか思われがちです。でもまったくそのようなことはありません。むしろ人と付き合うことは大の苦手。人と付き合うのが苦手だから、「上手な人はどのようにして相手と関わっているのだろうか」という疑問が常にあります。自分もそうなってみたいとは思いますが、でも無理でしょう。長い間築き上げてきた自分というものがあまりにも強いため、この歳になってそれを無理して変えようとすると自然どこかにしわ寄せがくるからです。

そこでコミュニケーション学にすがろうとするのですが、多くの場合、自分が追い求めている(あるいは、追い求めるだけの価値を見出す)ものが見つかるわけではありません。たまに見つかったりもするのですが、内容を読み込んでいくうちにがっかりすることが多くなっています。学会の集まりなのどがその典型で、参加するまでは期待していますが、いざ脚を運んで実情を見てみると「なんだ、これは!」となって、次から参加しないようになる。

そう考えると、自分はきっと組織に属するということを知らないのだとの結論に達します。あえてやろうと思えばできるのだが、それを自然発生的に、まるで自分はこのように生まれ育ってきたのだという仕方で組織に参加することができない。いや、できないのではなく、しなくなってしまうのです。もちろん、中にはこういったグループや組織に参加してみたいな、というものもでてきます。でも、(繰り返しになりますが)いざ行ってみると、どこでも偉い人がいて、その人の仲良しが何人かいる。本当に信じるってことができないらしく、信じることさえできてしまえば、本当に気が楽になるのに。それができずにいるために、どうしてもグループや組織に参加できずにいます。

「信じる」。これはどのような分野においてもとても大切なことです。まずは諦めの境地からスタートするのもいいでしょう。それとも天職だと思ってはじめからできる人もたまにはいるでしょう。でも、とにかく、時間をかけてやっているとそれが自分にとっての生きる道になるのです。それを「信じる」と言うのですが、悪い言い方をすれば「洗脳」というプロセスかもしれません。洗脳がうまくいけば、それを信じて道を進んでいくことができる。洗脳が途中で失敗してしまえば、違う道を歩まざるを得ない。その途中で大きな挫折感を抱くと、下手をすれば自殺に追い込まれる人もでてくるのです。

このように考えてくると、「自殺」というのはおもしろいテーマだと思っています。昨今有名人や大臣による自殺問題が多く報道されてきています。それはまるでコピー・キャットを増やすかのようです。一方、自殺を阻止させようとの公的機関によるメッセージや市民団体のようなものができあがって、一生懸命活動をおこなっています。

仏教では、人間の一生を「生死」(しょうじ)と呼びます。つまり、生きるということも人生だし、死ぬということも人生のひとつなのです。ほかの宗教と比べて仏教が優れている点を私はここに見出しています。キリスト教はやたら死を恐がります。人をそのまま埋める宗教は、できるだけ人の死を受け入れたくない宗教なのです。仏教はご存知のとおり、人を焼いてしまいます。人は灰と化します。人は魂となって死後の世界を彷徨い、そして次の人生を謳歌するのです。

切腹という責任の取り方はまさに仏教の教えを表すものです。自分の命と引き換えに自分の責任を果たすわけです。政治家がみな辞任するのは実は責任逃れだと思うのですが、政治などは誰がやろうともまったく印象の違いでしかないのですから、それで済むわけです。だから、本当に責任をとりたいのなら、問題を解決して状況が落ち着くのを待ってから辞めればいいと思っています。その間、世間のさらし者になりたくないがためにすぐ辞任する政治家が羨ましい限りです。

キリスト教は自分を殺してはならないと教えています。仏教とは正反対ですね。だから自殺はタブーです。仏教社会でもそれをタブー化しようとしているわけですが、それでも全体的に見れば、周りが迷惑を蒙るからとか、残された人が可哀想だから、残された死体を誰が片付けるのか、といった問題が前面に来る程度の扱われ方をしないのは、きっと自殺に対する価値観がそもそも異なるからだと思います。

これ以上いくとちょっと危ない考え方ですが、いわゆる神風特攻隊とか同時多発テロの祭の自爆という考え方はある宗教的価値観にはそぐわないのです。自分を殺してまで何かをしようとするのは倫理的によろしくない。そこで、このような戦い方も卑怯だと決め付けています。

誤解していただきたくないのは、自殺を擁護しているわけではない点です。ずるい言い方かもしれませんが、自殺という現象を理解したいだけなのです。私がそれを理解したからって社会が変わるわけではない。でも、すこしだけでも内容を知って、それによって新たな視点を提供できたり、発表する際に集まってくれた人が3分でも4分でもいいから考えていただければそれで十分です。

研究っていうのは、このようにほんの些細な動きが、全体として集まって大きな動きに変わる瞬間があります。クーンでしたか「パラダイム・シフト」と呼びましたが、そんな瞬間があるんですよね。その瞬間に居合わせる人は、古いパラダイムを持っていた人にとってはすこし不幸なのですが、でも、研究の世界も一歩一歩進んでいることの証しであります。

本当にとりとめもないことをずらずら書いていますが、IT英語のバックボーンを支えたひとつの考え方をとりあげたまでの話です。

言語政策について

各国政府が国民に対してどの言語を使用させるか、それとも何の制限も設けないかといった政策を「言語政策」と呼んでいるようです。
日本はとりあえず島国国家で、とかいう歴史的な考察からはじめてもはじめなくても、長い間、いわゆる日本語がその第一言語として
の地位を確立してきました。よほどのことがない限り、この事実は変わらないでしょう。

一国の経済事情に大きく支配されるのがこの言語政策です。私が留学を決意した1990年代は日本語はとても強い言語でした。バブル崩壊
後ではありましたが、その余韻が感じられ、どの大学でも日本語学科が増加の一途をたどるという雰囲気がありました。もちろん、それ
以降は衰退の一途につく結果を招くのですが……

アメリカではメキシカンが増加し、カリフォルニア州における人口の多数派となった現在、メキシコ語も強い言語なのですが、それでも
日常生活をはじめ、公的な言語が依然として英語のままです。たとえメキシカンが知事や大統領になっても、メキシコ風を吹かせない
だろうことは想像が硬くありません。

話をビジネスに転じてみるとどうでしょう。以前ですと、どうしても英語一色だったのが、最近では韓国とか中国とか、インドに人気が
集中しています。インドだとどうしても英語ですが、韓国や中国の場合だと日本語でもビジネスができてしまうことがあります。中国企業
にアウトソースする際、やさしい日本語を使うのに苦労した、という元先輩の談は非常に新鮮でした。

韓国と言えば、ヨン様に代表される一過性のブームに下支えされた言語ブームはとてもかわいそうに思えてなりません。ブームが去れば、
荒れ果てた万博会場の様相を呈するからです。ヨン様も下火になり、韓流にもそろそろ飽きが感じられる今日この頃、ハングル語にあれ
だけ一生懸命情熱を注いでいた人たちが、しらっと韓国ものから目を遠ざけるのは、まるで身内の恥を、自分が身内ではないと振る舞う
ことで恥をかかずにすませようとする人たちのようです。

受発注の言語が日本語だろうとそうでなかろうと、やはりIT業界を支えてきて、これからも支えていくのは英語でしょう。だから、IT英語
というのは、これからもどんどん続いていくし、続けていかなければなりません。言語政策とかいう、ちょっと大げさな言い方をすれば、
すぐに政治がらみの話かと思って身を引いてしまいますが、結局どうなの?と問えば、答えは簡単かもしれません。

海外では日本人の発言力が弱いのは、今も昔もまったく変わりません。国内では勢いがよくても、人前に出れば謙遜し、できるだけ恥を
かかないようにする世界に育った人が、いきなり人を仕切れるわけがないのです。日本人を発言力を!と、発言力のない人が一生懸命
声を大にしても説得力がありません。イチロー、松井、松坂といったダイリーガーは話題作りには事欠きませんが、それ以外の場面で
も同様に日本人が活躍できるかどうかは、国民性というよりも、個人レベルの問題なので、他の人はそういった海外でがんばっている
人をぜひ応援しなければいけません。

英語を必死でマスターするのもいいですが、日本語を必死で教える努力がもっと払われてもいいでしょう。その場合、何も昔風の日本語
でなくてもいいと思います。アニメは強いです。そういったJアート系をどんどん採用して、教材に使えば、皆、真剣に勉強します。
というか、彼・彼女らは、独学で勉強しているので、今さら日本語を新たなに勉強したいなどとは思わないかもしれないくらいです。

たかが言語、されど言語です。

理論と実践

何かに使えるという観点からいっしょうけんめい開発をおこなうのが技術です。物理・生物学的に見てどのような構成になっているかを、研究結果が使えるかどうかは抜きにして調べ、それを体系的に実証して結果として残されたものが理論です。だから技術ってのは、何かに使えなければしょうがない。一方、基礎研究に代表される理論研究は、それが将来的に使えるかどうかはまず考えてはいけないのです。

当時、スピーチコミュニケーションという学問を学ぶべく、アメリカの大学院に進みました。初回かその次あたりの授業で先生が(当時タイプで書かれた)一枚の所見を披露してくれたのです。それを読むと、「理論とは実践で使えるものであって、使えない理論とは意味のないもの」といった内容が書かれていました。スピーチコミュニケーションという学問は、ほかの学問体系に比べると、たしかに実践向きで、その教授もパブリックスピーキングなる、かなり実践的な場面に理論を適用することを心がけていたので、そのような思想を持っていたのでしょう。彼に感化されたわけではありませんが、使えない理論で重箱の隅をつつきあっても、おもしろくないと思うことがその後多々ありました。

でも、ノーベル賞に代表されるように、発表した当時はどうなるかわからない発明や発見が、実はその後の科学のあり方を大きく変えるだけの影響力を持つに至った考え方はたくさんあります。つまり、ある程度、時間が経たないと、理論本来の意義が見出せないということなのです。ここに、「発達」という大切なものの見方が隠されてもいます。

治験とかいって、病気を退治するための医薬品がたくさん開発されています。ぱっと見には効果があるのですが、人の一生涯においてどの程度の副作用があるかは、まだ未知数のところが多いです。だから実際のところ、新薬を試すには相当の覚悟が必要なのです。でも、それをせずにどんどん新薬が開発・利用されています。何十年経ってから「この薬は●×を引き起こす疑いがもたれる」とのニュースを耳にすることがあります。

あるまとまった考え「IT英語」を「理論」と関連させて話をしようとしたのですが、どうやら方向が逸れてしまったようです。