高校のガバ(英語とは関係ないが……)

中学の頃、体を鍛えたおかげで駅伝に強くなった。学年で一番早いというわけではないが、練習で一度だけ一位になったときは自分を褒めたい気分で一杯だった。

中学三年のとき、自宅の近くに県立高校ができあがり、近いことを理由に当然のことながらそこに通うようになった。ちなみに、朝の連続テレビ小説を見終わってから全速力で走れば朝の学活に間に合うというくらいの距離である。ただ、一度、ほかのクラスの担任の先生を階段を駆け上がりながら抜いたことがあった。「●×!どうした!」とか声をかけられたが、そのまま駆け足はとめなかった。

部活に入るというのがこれまで当然と考えられていたので、何にしようか迷ったが結局軟式テニス部に決めた。新人でしかもテニスなどやったことはない。毎日の練習と言っても、玉拾いと素振りだけ。これでは上手な奴も上達しないだろう。結局、つまらない、時間の無駄を理由に一年の夏で部活をやめた。夏の練習にも参加しなかった。

そして待望である強歩大会がやってきた。夏の暑さも過ぎ去った運動の秋にふさわしいマラソン。42.195とまではいかないが、35〜37キロの距離を競い合う強歩大会に心躍らせていた。それは中学で培った脚力を披露するときであり、テニスは駄目でもマラソンなら自信があった。テニスは挫けたが、マラソンなら自分を高めてくれるはずだ。そんな期待に胸を膨らませ当日を迎えた。

秋晴れの快晴、強歩大会の当日である。コースについては地元ということもあって、おぼろげながらに理解している。強歩大会に向けた練習は特にしなかったが、イメージトレーニングだけは完璧だった。中学時代の駅伝を思い出し、辛くなっても必死で脚を動かしさえすればよいと、走る前から自分を励ます姿を想像しては先頭順位争いを演じている自分に酔っていた。

女子のスタートがあり、何十分か遅れで男子の順番となる。さほど緊張もしていなかったのであろう。とにかく、中学で鍛えたこの脚。スタート時点で先頭集団に食い込むこと間違いなしだ。

ところがである。スタートして30分もしないうちに息が切れてきた。一緒に走ろうと約束していた駅伝仲間に迷惑をかけてはいけないと先にやる。どうしたことだろう。とにかく息が切れてしょうがない。結局一時間も経たないうちに歩き出し、そして、予想だにしなかったのだが、とにかく眠気が私を襲い、なんと道端に体を横たえ眠り始めてしまった。雪山などで遭難し「寝てはいけない」と怒鳴られる人の気持ちが理解できた想いだ。

私の周りに誰かいたのだろうか。きっと、眠り始めた時点で後続から来ていた生徒の誰かが先生に知らせたのだろう。強歩大会も終わろうとする頃、軽自動車が迎えに来てくれた。「途中棄権」。それが私に下された審判である。

「途中棄権」。この言葉は呪いであるかのようにその後、私の中に巣食ってしまう。

強歩大会を終え、正門からの下り坂を歩いていると、中学で野球部を伴にした奴が馬鹿にするような顔で「お前、病気じゃねえの?」と言ってきた。必ずしも運動神経がいいとは言えなかった奴の口から出た言葉である。せめて慰めの言葉をかけてほしかった。

2学期は悪夢のように過ぎた。強歩大会の結果からによる呪縛に心は常に締め付けられたかのようだった。考えると余裕もなく、帰宅すると食事をして、すぐさま仮眠をとり勉強に打ち込もうとするが、眠気を拭いきれず、結局、そのままベッドに潜り込む毎日が続いた。

それでも無事に2学期を終え、冬休みに突入した。その冬休みは雨模様の天気が多く、部活もやめ、友人も少なかった私は何をして時間をつぶしたらよいのか途方に暮れた。唯一残されていたのがギターだったが、1年次はほぼ歌を忘れたカナリアであるかのようにギターを手にした日数は少ない。

明日も雨か。

そんなことを考えながらベッドに潜り、考え事をしていたときだった。ガバが訪れたのは。

そうだ。自分で走ればいいんだ。部活に入って他人に練習の場を提供してもらう必要などない。自分は走ることがかつて得意だった。でも、自信過剰により、練習もせずに走ったがために、脱水症状に陥ってしまっただけだ。

そうだ。独りでもいいではないか。所詮、走るとは自分との戦いである。自分で好きな時間に好きな道を走ればいい。

翌日、雨振りだったが、走る格好をして人のいない方角を目指して走りこんだ。雨が自分を励ましてくれているような爽快な気分だった。

3学期。家に帰ってもよかったが、体育館にある男子更衣室にて着替えをすますと、そのまま走りに出かけた。別に人に見せびらかせたかったわけではない。ただ、家に帰るよりは気軽に走り出せるかなと思ったまでだ。

来る日も来る日も。独りで走り続けた。そして、私の行動はほかの人に伝染した。クラスでひとり、ふたりと私の行動に賛同するものが徐々に増えてきたのだ。そして多いときで私を含め4人の友人がいっしょに走ってくれた。みな脚の早いものではない。でも、いっしょに走ってくれた。それぞれが何かの部に所属していたようだが、中途半端な参加の仕方でもいいのでいっしょに走った。折り返し地点では筋力・柔軟体操をした。そして、帰路を悠々と走って戻る。

UJC (● Jogging Club)

クラブの名前がこう命名された。Uは地名である。近くにあった唯一のスポーツ店で、真っ赤なジョギング用パンツに白のワッペンをつけたものを揃えた。恥ずかしかったが、それからはこのジョギングパンツで毎日走るようになった。

雨の日は休み(だったと思う)。気分のいいときに走る。そんな取り決めがあったかなかったか、今では忘れたが、複数の仲間と走るときは気分がいい。しかし、毎日仲間の都合がいいわけではない。クラブが結成されてから活動を続け、そんな活動にも飽きてきたのだろうか、全員が揃わなくなることもでてくる。調子がいいときはいいが、人数が集まらず結局また独りで走る日もまた経験した。仲間が参加してから独りの寂しさを忘れていたため、久しぶりに独りで走るとなんと寂しいものなのだろうという感覚に襲われた。だが、その頃になると、中学時代の感覚を取り戻し、ペースも自分のものがつかめていた。しかし、速く走ろうとするのではなく、走ることを楽しもうと努めた。仲間と話をするのもよし、ときとして歩くのもよし。個人は自分に対する責任を持つことで参加の条件とする。それがUJCの掟である。

学年も2年となり、時が経つのも早くなる。そして、翌年の強歩大会の直前にUJCのメンバーで事前練習をおこなった。強歩大会と同じコースを走るのである。そこでも約束事は、みないっしょのペースで完走すること。今覚えているのは、たしか走り終わったな、ということだけで、いっしょのペースで走ったかは記憶に薄い。途中まではいっしょに走り、後は去年の屈辱を晴らそうと一心不乱にペースをあげていったかもしれない。

2年次の強歩大会がやってきた。

不思議なことに、去年はあれほど自信があったのにその自信をまったくもてなかった。自信というか、とにかく今年のレースがどうなるのかが自分の中でまったく予想もつかないものになっていた。上位に食い込むのか、それとも去年と同様、途中棄権になるのか。だが、不安ではない。とにかく読めない。イメージトレーニングできない状態だった。

その結果やいかに。