大学受験

ICU(教養)、東京外国語大学(スペイン)、青学(文)、南山(スペイン)、明治(文)

受験した大学である。このうち、青学と南山(と明治だったか……)が残り、本人は家を飛び出したかったので南山と言い張っていたが、ある日、風呂に薪をくべながら(そうである当時はまだ薪で風呂を沸かしていた。いつの時代だ!でも、今では贅沢品だろう)、母が急にやってきて(ちょうど、風呂を沸かす隣に台所があった)「青山の方が名が知られているのでいい」との一言に決心がついた。青山は何となく女子向けだと勝手に理解していた私は、まあいいか、という、あまり考えずに決めたのだが、厚木移転の二期生だったのでちょうど全体の希望者の成績も下がりして合格できたのだろう。

それにしてもICUというのは、やたらに行きたかった大学だが、これもどういうことはない、なんとなくの憧れであった。あの自由奔放な試験問題を見させられた日には、鼻血が出そうになったほどだが、正門に至る(あるいは、からの)並木道の長さには圧倒的に憧れた。でも、ICU卒業生の実質的な活躍ぶりを見させられるにつけ、最近では本当にいい大学なんだろうなと、ずっと以前にキリスト信者になっていなかったことを後悔している。

英語というのは一応頭にあったので、ICUの次だったら外語大かなと思っていた。でも、リスニングの試験を受験しながら、「ああ〜、自分は絶対合格できないな」と考えている自分がいた。リスニング中にである。本来、流れてくる英語音声に集中していなければならないリスニング試験中に「不合格」という音が内耳で音響をたてていた。だから、受かるわけがない。何十年後、とあるきっかけで、外語大の授業を見学し、それはすばらしい学生の質の高さに、合格しても絶対自分は生き残らなかっただろうと安堵のため息をついた。

大学受験について

そんなこんなで英語だけは自信を持つようになった。受験英語を意識して勉強するようになり、3年の頃だろうか、毎朝英単語の試験がある。L版というのか、写真の大きめのサイズの用紙に市販の英単語試験が配られる。前日か前々日に予習用の同サイズの単語集が渡され、みな、それを必死で暗記する。

自宅から学校まで、生徒の中では最短の距離に住んでいた私は、この予習をまったくやらなかった。というか、その暗記の予習をである。しかも、毎回、高得点をあげていたは確かである。暗記という予習もせずどのように毎回続けて高得点をあげたかというと、それは試験の直前に予習用の単語集とにらめっこして、短時間のうちにイメージを頭に叩き込んだのだ。これは完全に受験のテクニックであった。それが正しい英単語の学習法とは今でも思えない。ただ、試験実施の直前に単語集を見て、これとこれはこういう関係にあって風の対策をたてる。それだけだった。幸い、出題される単語数はさほど多くない。回答は選択式なので、なんとなく単語を覚えていれば回答には十分だった。

つまり何が言いたいのか。英単語を覚える式の勉強はまったく嫌だったのである。特に、旺文社系の出版社が発行する学参は近づきたくなかった。それでも、学校から指定されて夏休みの受験対策ともなると、指定図書を買って勉強したのだが、どうも好きになれなかった。即に読んで机の片隅にでも置いておきたかったくらいである。

では何がよかったかと言えば、中学の頃にも登場した音声による指導だ。たまたま旺文社になってしまうが、当時は旺文社によるラジオ受験講座なるものがあって(今でもあるのだろうか)、それを一冊買ってきて、数学だろうが、何だろうが一生懸命聞いていたのを、今こうして書いていて思い出した。何が一番よかったかと言えば、英語だろう。英語は聞いていて、ほかの教科よりはためになると思った。音を意識しなければ語学など成り立たない。数学や物理といったものは、別に人の言っていることを聞かなくても数式さえ理解してしまえばそれでOK。だが、英語はやはり聞いてみないとどうにもならないと感じた。残念なことに、J.B.ハリスという人が半ネイティブ講師として登場していて、しかも英単語を中心に講義していただけだ。もっと、ネイティブのかっとんだ講義や話があってもよかったように思う。受験対策なのでこれも仕方がないことだろう。

実は、中学の頃、大学受験の体験記を文庫本で読み漁った時期があった。灘、開成、麻布、ラサールといった高校へ進学した人たちの体験記である。インテリというか、知的なものに憧れた時期があったのである。だから、受験ということに関しては、おそらくほかの生徒よりも関心が高かった。

中学2年の頃だろうか。母が乳がん国立がんセンターで手術、入院したことがあった。お見舞いに行った日、6人部屋でベッドを隣にしていて、母が親しくしていた患者さんを見舞いに来ていた学ランを着込んだ人物が座っていた。なんと、その人は麻布生だった。私は、国立がんセンターのすばらしさよりも、ベッドを隔てて、インテリのオウラを全身から放出している彼を目の前にしたとき、神を見るような思いだった。「この人こそが、麻布生ですか!!!」と、本当は大声をあげて叫びたかったくらいだが、田舎風は吹かせるわけにはいかず、それはやめておいた。しかも、麻布生は数学か物理か知らぬが、教科書(いや、参考書)を膝上にしっかり置いていたのである。そして、母にりんごを剥いてあげていた!これにはさらに驚いた。勉強しながら、入院中の母親にりんごの皮を剥いてあげている。さすがは、麻布生だなと、すっかり感心しきって家路についた。

これは事後報告になるが、高校受験という言葉だけに憧れた私は、成績ではまったく太刀打ちできないことは知っていたが桐朋を受験した。もちろん結果は駄目であった。しかも、国立の並木通りを歩き、一橋を横目にで見ながら、桐朋で受験する、という単にそれだけをしてみたくて受験料を払ったのかもしれない。同じような生徒が3人、我が校にはいたが、どれも失敗に終わったようだ。ちなみに、受験前に3人が校長室(だか、何室だかに呼ばれて)訓示を受けたように思う。「お前は絶対受からんぞ」みたいないことを教務主任の先生から念をおされた覚えがある。

話を高校の頃に戻して、3年の夏休みに受験勉強なるものを必死にやってみた。でも、ここでも私独自というか何というか、不思議な方法をとった。夏期講習は中学3年の頃で飽き飽きしていたので、その頃は、土曜日に代々木ゼミに通うくらいで後は自分でやっていた。夏のビッグイベントが、何と音読による受験勉強だったのである。

朝8時までには自室に篭る体制をつくる。もちろん、夏の暑い盛りだから篭ること自体馬鹿げている。なぜなら、当時はまだ温暖化は叫ばれていなかったものの、やはり盆地風の地形に囲まれていたため、すぐにでも暑さが村を襲ったからだ。でも、自室のサッシを閉じて勉強しなければならなかったのには理由があった。

音読をしたからだ。

朝8時に入室。英語で勉強は幕開け。なんとか言う学校で買わされた参考書を音読する。短文がずらずら書かれて、文法の項目ごとに並んでいたんだろうか。そんなことは気にせず、とにかく音読を続ける。何にも考えずに音読である。ただ只管読み続ける。

一時間が経過した。

調子がいい日は、次の一時間も英語。

そして、音読。

英語に疲れたら、世界史。

それも音読。

世界史は、とにかく山川でなければいけないような話を聞いていたので、学校で採用となっている教科書以外にも金を出してわざわざ山川を買い、それを只、只管、音読したわけだ。

倫理もやったな。

当時は、「共通一次」と呼ばれていた、今の「センター試験」に相当する試験を受験予定だったので、倫理とか生物とか、とにかくできるだけ多くの教科を音読していった。いや、倫理はノートに只、写していったのかもしれない。

とにかく、私が受験で覚えているのは、受験したという事実よりも、音読と書写することの作業の方であった。特に、音読は、脳ミソがぼーーットするまで、音読しまくった覚えがある。そのうち、読んでいる内容よりも、読んでいるという事実にうっとりしてきて、内容理解につながっていないことも多々あった。

高校のガバ(続)

実は、1年次の強歩大会でとても残念な想いをしたことが一点だけあった。途中棄権ではない。それ以外にももうひとつあった。

おにぎり、である。

途中の沿道には、お昼近くになっておにぎりを配ってくれる地域の方がいるとの噂だった。なぜか知らねど、おにぎりと聞いてむしょうに食べたくなった想いがある。途中棄権で道端に横たわっていたとき、そのまま眠りに陥ったのだが、お腹がすいていたのだろうか。今年こそは、そのおにぎりとやらを食おうではないかといきり立っていたわけである。

去年と同様、女子のスタート、そして男子のスタートがあった。今年の1年には●×とかいう、おそろしい強豪がいるらしい。どんな顔か拝めさえでもしたら、それはそれで合格点を自分に与えてもよい。

今年は去年と違ってUJCのメンバーがいる。しかし、スタート前に話していたのは、奴らを気にせず先に行ってよいとのありがたい言葉だった。

そして、去年倒れたあたりまでUJCのメンバーといっしょに走ったろうか。その後は自分のペースで走り始めた。

その後は断片的にしか覚えていない。しかし唯一覚えていないのは、コースも終盤にさしかかるあたり、国道に入る前までに心臓破りの坂が待ち構えている。そのあたりに来ると、走るどころの騒ぎではない。およそ30数キロ走った地点であろう。

坂は大きなうねりを見せ、遠くまで前方が確認できる。

いた!

そこに確認したのは、(後で知るのだが)一学年下の別の強豪の●×である。彼は歩いている。私もその時点では早歩きをしていた。だが、私の身長(歩幅)を考えると、おそらく坂が終わる前までには追い抜けるのではないだろうか。

歩いている人間を、しかも同じくらいのペースで抜くときほど、遠慮するものはない。なんとなく申し訳ないようだが、相手が闘志を燃やし出すとこれまた競争は混戦状態となる。そのときの彼はおそらく負けを悟っていたのだろう。比較的ゆっくり目のペースではあったが、私は必死に追い抜いていた。

そして後は大きな下りと最後ゆっくり目の上りで終わりである。自分が何位につけているのかはよくわからなかった(もうどうでもよくなっていた)が、それでも、今追い抜いた奴にゴール前で追い抜かれるのだけはごめんだ。そこで、とにかく、彼のペース以上の走りを見せてこのままゴールを狙いたい。

それしか考えていなかった。でも、確認のために後ろは見たくない。確認した途端に、例の彼がすごい形相で追いかけてきたら私は座り込んでしまうだろう。後ろだけは振り返れない。

そして、ついに学校のグラウンドに。ゴールは間近である。

ゴールイン!

2位だった。

去年の途中棄権が、今年は2位。全校生徒はおよそ600名程度。その中の、しかも何の部にも所属せず、自分で作ったUJCで走った1年の結果が強歩大会の2位である。

自分でやればできる。

中学の頃のカセットテープ学習にしても、高校のUJCにしても、自分で何かをはじめてもいいんだよ、という神からのメッセージだったのだろうか。私は益々自信を持つのだが、それが続くのも時間の問題だった。

高校のガバ(英語とは関係ないが……)

中学の頃、体を鍛えたおかげで駅伝に強くなった。学年で一番早いというわけではないが、練習で一度だけ一位になったときは自分を褒めたい気分で一杯だった。

中学三年のとき、自宅の近くに県立高校ができあがり、近いことを理由に当然のことながらそこに通うようになった。ちなみに、朝の連続テレビ小説を見終わってから全速力で走れば朝の学活に間に合うというくらいの距離である。ただ、一度、ほかのクラスの担任の先生を階段を駆け上がりながら抜いたことがあった。「●×!どうした!」とか声をかけられたが、そのまま駆け足はとめなかった。

部活に入るというのがこれまで当然と考えられていたので、何にしようか迷ったが結局軟式テニス部に決めた。新人でしかもテニスなどやったことはない。毎日の練習と言っても、玉拾いと素振りだけ。これでは上手な奴も上達しないだろう。結局、つまらない、時間の無駄を理由に一年の夏で部活をやめた。夏の練習にも参加しなかった。

そして待望である強歩大会がやってきた。夏の暑さも過ぎ去った運動の秋にふさわしいマラソン。42.195とまではいかないが、35〜37キロの距離を競い合う強歩大会に心躍らせていた。それは中学で培った脚力を披露するときであり、テニスは駄目でもマラソンなら自信があった。テニスは挫けたが、マラソンなら自分を高めてくれるはずだ。そんな期待に胸を膨らませ当日を迎えた。

秋晴れの快晴、強歩大会の当日である。コースについては地元ということもあって、おぼろげながらに理解している。強歩大会に向けた練習は特にしなかったが、イメージトレーニングだけは完璧だった。中学時代の駅伝を思い出し、辛くなっても必死で脚を動かしさえすればよいと、走る前から自分を励ます姿を想像しては先頭順位争いを演じている自分に酔っていた。

女子のスタートがあり、何十分か遅れで男子の順番となる。さほど緊張もしていなかったのであろう。とにかく、中学で鍛えたこの脚。スタート時点で先頭集団に食い込むこと間違いなしだ。

ところがである。スタートして30分もしないうちに息が切れてきた。一緒に走ろうと約束していた駅伝仲間に迷惑をかけてはいけないと先にやる。どうしたことだろう。とにかく息が切れてしょうがない。結局一時間も経たないうちに歩き出し、そして、予想だにしなかったのだが、とにかく眠気が私を襲い、なんと道端に体を横たえ眠り始めてしまった。雪山などで遭難し「寝てはいけない」と怒鳴られる人の気持ちが理解できた想いだ。

私の周りに誰かいたのだろうか。きっと、眠り始めた時点で後続から来ていた生徒の誰かが先生に知らせたのだろう。強歩大会も終わろうとする頃、軽自動車が迎えに来てくれた。「途中棄権」。それが私に下された審判である。

「途中棄権」。この言葉は呪いであるかのようにその後、私の中に巣食ってしまう。

強歩大会を終え、正門からの下り坂を歩いていると、中学で野球部を伴にした奴が馬鹿にするような顔で「お前、病気じゃねえの?」と言ってきた。必ずしも運動神経がいいとは言えなかった奴の口から出た言葉である。せめて慰めの言葉をかけてほしかった。

2学期は悪夢のように過ぎた。強歩大会の結果からによる呪縛に心は常に締め付けられたかのようだった。考えると余裕もなく、帰宅すると食事をして、すぐさま仮眠をとり勉強に打ち込もうとするが、眠気を拭いきれず、結局、そのままベッドに潜り込む毎日が続いた。

それでも無事に2学期を終え、冬休みに突入した。その冬休みは雨模様の天気が多く、部活もやめ、友人も少なかった私は何をして時間をつぶしたらよいのか途方に暮れた。唯一残されていたのがギターだったが、1年次はほぼ歌を忘れたカナリアであるかのようにギターを手にした日数は少ない。

明日も雨か。

そんなことを考えながらベッドに潜り、考え事をしていたときだった。ガバが訪れたのは。

そうだ。自分で走ればいいんだ。部活に入って他人に練習の場を提供してもらう必要などない。自分は走ることがかつて得意だった。でも、自信過剰により、練習もせずに走ったがために、脱水症状に陥ってしまっただけだ。

そうだ。独りでもいいではないか。所詮、走るとは自分との戦いである。自分で好きな時間に好きな道を走ればいい。

翌日、雨振りだったが、走る格好をして人のいない方角を目指して走りこんだ。雨が自分を励ましてくれているような爽快な気分だった。

3学期。家に帰ってもよかったが、体育館にある男子更衣室にて着替えをすますと、そのまま走りに出かけた。別に人に見せびらかせたかったわけではない。ただ、家に帰るよりは気軽に走り出せるかなと思ったまでだ。

来る日も来る日も。独りで走り続けた。そして、私の行動はほかの人に伝染した。クラスでひとり、ふたりと私の行動に賛同するものが徐々に増えてきたのだ。そして多いときで私を含め4人の友人がいっしょに走ってくれた。みな脚の早いものではない。でも、いっしょに走ってくれた。それぞれが何かの部に所属していたようだが、中途半端な参加の仕方でもいいのでいっしょに走った。折り返し地点では筋力・柔軟体操をした。そして、帰路を悠々と走って戻る。

UJC (● Jogging Club)

クラブの名前がこう命名された。Uは地名である。近くにあった唯一のスポーツ店で、真っ赤なジョギング用パンツに白のワッペンをつけたものを揃えた。恥ずかしかったが、それからはこのジョギングパンツで毎日走るようになった。

雨の日は休み(だったと思う)。気分のいいときに走る。そんな取り決めがあったかなかったか、今では忘れたが、複数の仲間と走るときは気分がいい。しかし、毎日仲間の都合がいいわけではない。クラブが結成されてから活動を続け、そんな活動にも飽きてきたのだろうか、全員が揃わなくなることもでてくる。調子がいいときはいいが、人数が集まらず結局また独りで走る日もまた経験した。仲間が参加してから独りの寂しさを忘れていたため、久しぶりに独りで走るとなんと寂しいものなのだろうという感覚に襲われた。だが、その頃になると、中学時代の感覚を取り戻し、ペースも自分のものがつかめていた。しかし、速く走ろうとするのではなく、走ることを楽しもうと努めた。仲間と話をするのもよし、ときとして歩くのもよし。個人は自分に対する責任を持つことで参加の条件とする。それがUJCの掟である。

学年も2年となり、時が経つのも早くなる。そして、翌年の強歩大会の直前にUJCのメンバーで事前練習をおこなった。強歩大会と同じコースを走るのである。そこでも約束事は、みないっしょのペースで完走すること。今覚えているのは、たしか走り終わったな、ということだけで、いっしょのペースで走ったかは記憶に薄い。途中まではいっしょに走り、後は去年の屈辱を晴らそうと一心不乱にペースをあげていったかもしれない。

2年次の強歩大会がやってきた。

不思議なことに、去年はあれほど自信があったのにその自信をまったくもてなかった。自信というか、とにかく今年のレースがどうなるのかが自分の中でまったく予想もつかないものになっていた。上位に食い込むのか、それとも去年と同様、途中棄権になるのか。だが、不安ではない。とにかく読めない。イメージトレーニングできない状態だった。

その結果やいかに。

中学生の頃のガバ

大学の般教(死語か!?)で「倫理学」をとった。その先生の授業で「ガバ」という言葉を習った。語源は不確かだが、人生を変えるような瞬間とでも定義されていたような気がする。英語と関係した私のガバは中学一年の夏休みにやってきた。

私の住んでいた村には中学校がなかったため、隣町の中学まで毎日40〜50分かけて通っていた。部活、通学と疲れっぱなしで勉強もせず、一学期が終わろうとしていた。親子面談というのだろうか、母と私と担任とで成績についての面接が一学期の終わりにあった。総合成績というのを見せられ、順位は27。全学年で40名ぐらいしかいなかったので平均以下である。平均以上は楽勝とたかをくくっていた私は外には出さないものの内心相当なショックを受けていた。このままいけば、どんどん成績は落ち込んでいく。勉強に拘っていたわけではないが、自分が馬鹿になって、他から取り残されていく姿を見るのはなんとも恐怖である。

一学期が終わり、夏の部活がはじまった。何日か経って、その日は休みだったのか。それとも、午後からの部活で昼食前だったのか。とにかく暑い日だったことだけは覚えている。

「ごめんください」

その声は我が家の玄関の訪問者によるものだ。幼くして父を亡くしていた、その日の家に母がいたが、私はその声にひきづられるようにして玄関に向かう。

「こんにちは」

背広を着ていたのだろう。しかし、眩いばかりの白のワイシャツを着たセールスマンらしき人の姿がそこにはあった。銀縁のめがねをかけ、いかにもインテリ風の雰囲気を醸し出そうとの努力からか、髪の毛をしっかりポマードでオールバックに固め、私の記憶違いでなければ、襟にすこし掛かる程度の長髪だった。でも、だらしなさなど、どこにも匂わないのは、単に夏の暑さに紛れてしまっていたからかもしれない。

片田舎の中学生にセールストークを拒む力などどこにもない。そう、そのセールスマンは、カセットテープを利用した数学、英語の自習教材を売りつける半悪徳セールスマンだった。しかし、拒む力を持たない無垢な中学生はセールスマンの説明を聞くや、「これぞ私が待ち焦がれていた教材!」とばかりに洗脳されてしまったのである。数十分も説明を聞いただろうか。母を呼ばずして購入を決めることなどできないため、セールスマンの説明が終わるやいなや、母を呼び、そのカセットテープによる教材を買ってくれるよう頼み込んだのだった。

一科目で10万円。よくありますよね。こういう論外の教材が。しかし洗脳されていた私は10万だろうがなんだろうが、それを買ってくれなければ清水の舞台から飛び降りるぞという勢いで(使い方、間違ってますね)母に購入を促したのである。ある意味、彼女もふとっぱらなところがあった。二つ返事、いや三つ返事ぐらいでOKをもらったのである。「これがあれば勉強するから」私の最後の言葉はこれだったに違いない。

二学期がはじまるのを待たずして、私はカセットテープによる教材学習をスタートさせた。その地域で採用している教科書とまったく同じなので、まあ予習、復習を自分でやれない人のための音声指示がついたものがすべて録音されていると考えてよい。しかも、音声はNHKで聞き覚えのある落ち着いた男性によるもの。英語は女性だったかな?とにかく、それから毎日のようにカセットテープでポーズをとったり、再生したりの学習が続いた。

英語のスキットを読むのはネイティブである。解説の後、ネイティブに続いて私も発音をする。それが延々と続く。英語だけではない。数学もすべて音声による指示に従っての学習となった。声による指示、声による応答。声を介した学習がそれから数ヶ月続くのである。カセットテープはその数にして15本ぐらいあっただろうか。とにかく、聞いて聞いて聞きまくったのが私のカセットテープ学習との出会いであり、英語学習との出会いだったのである。しかも、その出会いとは、一学期の新人先生のすぐ後、ネイティブの英語を聞きはじめたので、意外や意外、ネイティブの英語には中学の早い段階から耳が馴染んでいた。

2学期、3学期とこれを使い続けた。そして一年を終わってみての成績はぐんぐんあがって、とうとう一桁台まで上り詰めた。2年も同様にしてカセットテープ教材を購入し、3年はたしか英語だけにしただろうか。とにかく、勉強をするんだ(私の場合、カセットプレイヤーの再生ボタンを押すんだ)という気持ちが癖になり、学習内容よりもまずはカセットプレイヤーの前に座るというのが習慣になった。そこから学習がスタートした。

英語に関して言えば、カセットプレイヤーで勉強をはじめて以来、学校の先生の英語がとてもわざとらしく美しくなく聞こえてきた。自分の発音もがらっと変わった。授業中に英語を読めと言われてとても恥ずかしい(申し訳ない)思いを抱くようになった。それは、英語の先生以上に発音が美しく聞こえるからであった。帰国子女でもないのに、先生よりも英語の発音がきれい。そんなことはありえない。私のほかにもう一人、英語の発音がきれいな女子生徒がいた。彼女は当時流行っていた英国バンド(Bay City Rollersだ!思い出した)の熱狂的なファンのひとり。コンサートにも行く。ポスターも買う。とにかく何かに熱狂するタイプで、きっとレコード(CDなどありません)を聞きまくり、自分でも音程が合わないが唄いまくっていたのだろう。だから、先生の発音よりは、彼女の発音を聞く方がよっぽど勉強になった。

塾に通ってはいなかったので、カセットテープ学習が塾代として充当されていたと考えればいいだろう。それがきっかけになったのか、みんなでいっしょに式の勉強方法にはどうも慣れない。ひとりでコツコツタイプの人格はひょっとして、あの夏休みの一日、インテリ風のサラリーマンさんが持ちかけてくれたカセットテープ学習のおかげだったのかもしれない。今どこにいるのか。何をしているのか。生きているのかもわからないが。ここまで私の人生を変えてくれたことに対して、お礼を言いたいくらいである。

どうもありがとうございます。

英語との対面

小学校の高学年の頃、英語とはこのようなしゃべり方(聞こえ方)をするのだな、との想像の元、話しまねをいい加減にするようになるのを誰もが記憶しているだろう。もう30年も前のことなので、当時の英語環境がどのようなものかすら思い出せない。テレビやラジオはあったので、出演者が英語を話している音を聞いていたのか。それとも、誰かが英語の話し方を真似するのを、自分なりに真似していたのかはわからない。ただ、英語の話し方を真似しながら、「これが何かの意味を持つようになるんだな、不思議だ」(もちろん、自分の話している内容はまったく意味不明で、怪しいものだったが)と頭の中に浮かんだようにおぼろげながら記憶している。

今では小学校時代に英語との遭遇を経験できるが、片田舎の小学校ではそのような機会もない。だから、多くの同世代がそうであったように、中学校に入ってからの英語の授業が英語との対面となった。中学校一年の頃の先生は「今泉先生」といった。おそらく大学出まもなくの若い先生だったが、今想像しようにも何歳ぐらいか想像もつかない。(後に数学の先生と結婚することになる)彼女はすらっと細く、茶色がかった鼈甲風のめがねをかけていた。まあ、当時からすると、洋風だったのだろうか。若かったからなのか、英語の発音が不自然でないくらいに耳に心地よかった。

そこで私の人生にとってのいくつかの大事件発生となる。隣村の中学校まで毎日40〜50分かけて歩く通学は体力増強には役立ったものの、勉学面では損になったこそすれ、何も得になったことはない。通学中に勉強するなど考えられないことだし、部活をして帰宅の途につき家に帰ればくたくたで勉強どころの騒ぎではない。それでも何人かの親しい友人ができ、週末に近場の町に電車で行こうではないかということになった。

小学校当時、友人と電車に乗った記憶はない。つまり人生ので初の電車体験というわけで、こづかいをもらったかもらわないかも定かではなくなったが、友人の後をついていった。古本屋に立ち寄るという。本屋は定期購読していた本を買いに行くことがあったので、別の町ではあるが経験がある。しかし、いっしょに行った友人が手にする本を見て、自分はなんて子どもなんだろうと焦りさえ感じた。ひとりの彼はムツゴロウ著の本を何冊か読んでいるという。星新一が趣味の奴もいた。肝心の私であるが、小学校時代は読者感想文コンクールで毎年入賞こそしたものの、男子4名の弱小学校だったので読書感想文を提出するだけで入賞確実という具合だった。焦りに焦った私はとりあえず手にした『入江塾の数学』(祥伝社)を購入した。完全に見栄だけである。しかし、彼らの知的水準に追いつかんと、私は少ないこづかいを投資して買った本を一心不乱に読み進めた。この頃だったか、何か自分で一生懸命考えてそれを基に何か仕事をしたい、つまり、今考えれば哲学者になりたいと思うようになったのは……

後に、この数学本がきっかけとなり、夏の自由研究で『零の研究』(遠山啓著、岩波新書)を生物の先生に薦められ、訳もわからずに読み、模造紙に一枚の研究結果を発表した。先生には苦笑で片付けられたが、たしかに私も恥ずかしさを堪えるだけで大変だったのを覚えている。周りを圧倒してやろう、自分がすこしでも頭のいいところを見せ付けてやろう。そんな思いで一杯だった。

話が横に逸れたので、英語との対面は次回に譲る。

オーラル・ヒストリー

大学院の頃、スピーチ・コミュニケーションという学問を専攻した。在籍中に研究科の名前がSpeech CommunicationからHuman Communication Studiesに変わるなど、この分野の流動性というものを体感したのを覚えています。不安とも希望ともとれないどっちつかずの気分だったが、とにかく先端にも近い内容を学んでいるという自覚は、しっかり持っていようと決心していた。

その頃、いろいろな論文を読んだが、どうしても納得いかないもののひとつに、えいやっとやってしまう定量調査法はその代表だった。仮説を立て、調べようとしている事項を数値化して実験しデータを取得、その後、SPSSにかけ、えいやっ、で終わり。そんな方法ですました顔をしていていいのだろうかと疑問が先にたった。

さて、そのうちにいろいろなテーマが交錯するようになり、Narrative paradigmなるものを知るようになる。これには納得できる、という考え方にはじめてぶつかった気がした(実は、長い時間が経過してみると納得できる考え方がたくさんでてきたのだが…)。それについては数日前のブログで書いておいたので、今日は類似の考え方としての「オーラル・ヒストリー」がテーマである。

政治学者がある研究書を発表する際、調査法として使用していたものである。つい最近では、ご本人からいただきものをした『通訳者と戦後日米外交』(鳥飼玖美子著)もオーラル・ヒストリーにて、戦後の通訳史を解明している。その中で、同時通訳者の草分けである5名の方々にインタビューをし、通訳に関することだけではなく、その背景をも知ろうと、5名がどのような経過で英語と格闘をはじめたのかが紹介されている。

そのオーラル・ヒストリーなるものに触発され、私は自叙伝というスタイルで自分のためのオーラル・ヒストリーをまとめていこうと思い立った。ブログでみんながやっているのは、日記という形のオーラル・ヒストリーなんだなと一人で納得している。