理論と実践パート2

理論と実践ということで数日前に書きました。その主旨としては、すぐれた理論は実践でも役立つし、すばらしい実践は体系的にとらえればすぐれた理論になる、というものです。

ただ残念なことに、理論をしっかり読み込んでいこうとすると、果たしてこれが実践なのか?と思うものが多いですし、実践を見てみるとどの箇所を理論に基づかせようとしているかという疑問を抱かせざるを得ない内容が多過ぎる点です。特に嘆かざるを得ないのは、どうやら理論側に軍配があがりそうです。

重箱の隅をつつくような理論をあげてそれが実践で役立たないと非難するのはあまりにも幼稚な議論でしょう。でも、私自身はどうしてもこういった幼稚な議論をしがちになってしまうのは、本当は、ある研究分野における前提をまったく理解していないからなのです。

たとえば、理論を構築するプロセスだけとってみても、一冊の本では収まりきらないような内容を勉強しなければいけません。定質、定量といった調査法を勉強して、いざ調査をはじめようとすると、調査の内容どころか、こういった調査法を身に付けるまでに時間がかかり、本筋の内容を考える暇さえ与えられないような気がします。それだったら自分の力不足で済ませられるのですが、内容を真剣に理解しようとしても、本当に内容を論じているのかが見えなくなってくることさえあるのです。調査法だけを非難するのは論理的ではないにせよ、定量的な調査法を用いて実証しようとする研究ほど毛嫌いしてしまうし、そういった研究者が多いのもおそらくうなづける事実ではないでしょうか。

ただやはり何を研究しているかを再度問う必要があると思うのです。自然、物理的現象だったら観察や調査というのは納得がいきます。推測というものが入ってくるのであれば、統計的な判断にゆだねるのもいいでしょう。しかし、私が長い間関心があって、今でも中心テーマに据えたいのは「コミュニケーション」という現象なのです。しかも接頭辞に「人間」というものを伴います。これを合体させると「人間コミュニケーション」となり、人と人とがどのように関わっていくかを見つめていきたいと考えています。

このように書くと自分はコミュニケーションの達人だとか思われがちです。でもまったくそのようなことはありません。むしろ人と付き合うことは大の苦手。人と付き合うのが苦手だから、「上手な人はどのようにして相手と関わっているのだろうか」という疑問が常にあります。自分もそうなってみたいとは思いますが、でも無理でしょう。長い間築き上げてきた自分というものがあまりにも強いため、この歳になってそれを無理して変えようとすると自然どこかにしわ寄せがくるからです。

そこでコミュニケーション学にすがろうとするのですが、多くの場合、自分が追い求めている(あるいは、追い求めるだけの価値を見出す)ものが見つかるわけではありません。たまに見つかったりもするのですが、内容を読み込んでいくうちにがっかりすることが多くなっています。学会の集まりなのどがその典型で、参加するまでは期待していますが、いざ脚を運んで実情を見てみると「なんだ、これは!」となって、次から参加しないようになる。

そう考えると、自分はきっと組織に属するということを知らないのだとの結論に達します。あえてやろうと思えばできるのだが、それを自然発生的に、まるで自分はこのように生まれ育ってきたのだという仕方で組織に参加することができない。いや、できないのではなく、しなくなってしまうのです。もちろん、中にはこういったグループや組織に参加してみたいな、というものもでてきます。でも、(繰り返しになりますが)いざ行ってみると、どこでも偉い人がいて、その人の仲良しが何人かいる。本当に信じるってことができないらしく、信じることさえできてしまえば、本当に気が楽になるのに。それができずにいるために、どうしてもグループや組織に参加できずにいます。

「信じる」。これはどのような分野においてもとても大切なことです。まずは諦めの境地からスタートするのもいいでしょう。それとも天職だと思ってはじめからできる人もたまにはいるでしょう。でも、とにかく、時間をかけてやっているとそれが自分にとっての生きる道になるのです。それを「信じる」と言うのですが、悪い言い方をすれば「洗脳」というプロセスかもしれません。洗脳がうまくいけば、それを信じて道を進んでいくことができる。洗脳が途中で失敗してしまえば、違う道を歩まざるを得ない。その途中で大きな挫折感を抱くと、下手をすれば自殺に追い込まれる人もでてくるのです。

このように考えてくると、「自殺」というのはおもしろいテーマだと思っています。昨今有名人や大臣による自殺問題が多く報道されてきています。それはまるでコピー・キャットを増やすかのようです。一方、自殺を阻止させようとの公的機関によるメッセージや市民団体のようなものができあがって、一生懸命活動をおこなっています。

仏教では、人間の一生を「生死」(しょうじ)と呼びます。つまり、生きるということも人生だし、死ぬということも人生のひとつなのです。ほかの宗教と比べて仏教が優れている点を私はここに見出しています。キリスト教はやたら死を恐がります。人をそのまま埋める宗教は、できるだけ人の死を受け入れたくない宗教なのです。仏教はご存知のとおり、人を焼いてしまいます。人は灰と化します。人は魂となって死後の世界を彷徨い、そして次の人生を謳歌するのです。

切腹という責任の取り方はまさに仏教の教えを表すものです。自分の命と引き換えに自分の責任を果たすわけです。政治家がみな辞任するのは実は責任逃れだと思うのですが、政治などは誰がやろうともまったく印象の違いでしかないのですから、それで済むわけです。だから、本当に責任をとりたいのなら、問題を解決して状況が落ち着くのを待ってから辞めればいいと思っています。その間、世間のさらし者になりたくないがためにすぐ辞任する政治家が羨ましい限りです。

キリスト教は自分を殺してはならないと教えています。仏教とは正反対ですね。だから自殺はタブーです。仏教社会でもそれをタブー化しようとしているわけですが、それでも全体的に見れば、周りが迷惑を蒙るからとか、残された人が可哀想だから、残された死体を誰が片付けるのか、といった問題が前面に来る程度の扱われ方をしないのは、きっと自殺に対する価値観がそもそも異なるからだと思います。

これ以上いくとちょっと危ない考え方ですが、いわゆる神風特攻隊とか同時多発テロの祭の自爆という考え方はある宗教的価値観にはそぐわないのです。自分を殺してまで何かをしようとするのは倫理的によろしくない。そこで、このような戦い方も卑怯だと決め付けています。

誤解していただきたくないのは、自殺を擁護しているわけではない点です。ずるい言い方かもしれませんが、自殺という現象を理解したいだけなのです。私がそれを理解したからって社会が変わるわけではない。でも、すこしだけでも内容を知って、それによって新たな視点を提供できたり、発表する際に集まってくれた人が3分でも4分でもいいから考えていただければそれで十分です。

研究っていうのは、このようにほんの些細な動きが、全体として集まって大きな動きに変わる瞬間があります。クーンでしたか「パラダイム・シフト」と呼びましたが、そんな瞬間があるんですよね。その瞬間に居合わせる人は、古いパラダイムを持っていた人にとってはすこし不幸なのですが、でも、研究の世界も一歩一歩進んでいることの証しであります。

本当にとりとめもないことをずらずら書いていますが、IT英語のバックボーンを支えたひとつの考え方をとりあげたまでの話です。