語る葦

いきなりと思われるかもしれませんが、ロシアの発達心理学者にヴィゴツキーという人がいます。(というか、優秀でありながら若くして他界したため、心理学の●●<よく比喩に使われる偉大な音楽家の名前が入る>と形容されます)ヴィゴツキーは人類の知能の発達に関心を持ち、児童の行動を観察することで実証的なデータを提供した人としてよく知らせています。80〜90年代にアメリカの学界で「ヴィゴツキールネサンス」と称されるブームを呼び起こしました。大学院でとった初の授業が、なんとヴィゴツキーのLanguage and Thought(ロシア語からの翻訳)で、その読みにくさにねをあげそうになりましたが、今思えば多少なりとも彼の思想に触れておけてよかったなと思っています。

ヴィゴツキーの考え方のひとつで、教育(中でもテスト)に関するものがあります。将来の学習に対して計測するテストはない。テストとは、過去どれだけ学習したかの証でしかない、というものです。そんなの当然と思われるかもしれません。中間や期末試験、受験勉強といった類の試験はその典型ですね。また、就職試験の筆記試験にしても、そのほかのありとあらゆる種類の試験はみな、いわゆる試験対策が可能なものです。試験対策が可能ということは、過去に勉強した蓄積が根本であって、それが土台にあるからこと試験が可能になります。

昔ある外資系のIT企業に勤めていたとき、とても優秀な一年上の先輩と机を隣り合わせで仕事をさせていただいたことがあります。といっても、その当時はまだ研修中だったため、その先輩が仕事に打ち込んでいる中、私は勉強していたわけです。年がら年中勉強していても眠くなるだけなので、たまに冗談のひとつも言ってみるわけです。ただ、その先輩と話をしていると、非常にむずかしい話に移行していくことがたまにありました。その中の会話のひとつに、「企業では、人材の能力を測る際に、現在の能力ではなく、将来どのような能力を発揮してくれるかで見るべきだ。そして、それに対して給与を計算すべきだ」というものがあり、それには納得せざるを得ませんでした。

たしかにそうなのです。そして、特に技術的な進歩が急速であるIT業界にあっては、過去どのような仕事をしたかではなく、これからどのような仕事ができるかで能力を決め、さらに言えば、その将来的価値創出に対して企業は給料を算出すべきなのです。これが能力主義の根本となっているはずですが、でも、実際の昇進などを見ていると、本当にそれがすべての企業に浸透しているかは疑問です。日本の伝統的な組織、もっと言えば、日本の大学のようなところは、まったく逆のような状況も見られるのです。

もちろん、将来の価値創出というのをどのようにして計測(予測)するかはほぼ不可能です。計測を試行してみるとしても、それは過去や現在のデータから得るしかありません。また、予測というそのものが怪しいのは事実です。言わば、おみくじみたいなものですので。それから考えるべき点は、組織にとっての価値というものが多面的な計測(判定)のされ方をするということです。作業をこなすだけが価値なのか。それよりも、長い間、組織に勤めていて人脈が豊富で仕事を進める上でその人脈を活用できる、というのも、価値創出に至る手段となり得ます。となると、単なる実務上の能力(たとえば、何ステップを何時間でコーディングできるとか、システム開発を何ヶ月でできるとか)だけで判定することがむずかしくなるでしょう。

さきほどのヴィゴツキーですが、「発達」という心理学の一分野に興味を持っていたからでしょう、このようなことを言ったのは。人間は個体にて、そして系統的に見ても、常に発達を遂げている。個々の人間を見るときには、常に発達という時間の流れの中で考えていかなければならない。横断的という言い換えられましょうか。でも現存する人間に関する研究では多くが縦断的といって断片的で一時点での状態を探る手段に頼っているものがあります。その原因は言うまでもありません。横断的な研究をするには時間がかかるのです。ひとりの、あるいは複数の人間を何十年にも渡って見つめるしか方法がないのですから。

ただ、それを解消するような調査方法が見直されているのはうれしい限りです。Narrative paradigmは私が好きなアプローチです。これに近いものとして、オーラル・ヒストリーという考え方もいろいろな場面で聞かれるようになりました。同時通訳者として有名な鳥飼玖美子氏は『通訳者と日米外交史』(みすず書房)という書籍を著しました。著名な通訳者にインタビューをし、口頭にて通訳史を論じてもらうものです。今まで作業面にしか焦点が当てられてこなかった研究分野でしたが、通訳者という人間にスポットライトが当てられた画期的な研究だと思います。

ですから、ある人材がこれから何をしてくれるのかは、やはりその人に何かを語ってもらうしかないのでしょう。もちろん、それを受けて判定するのは、みなさんですし、それがハズレルこともあります。でも、語ってもらわないことには何も生まれません。人間は「語る葦」なのですから。